織田信長
織田信長
1534-1582
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生い立ち

1534
織田信秀の嫡男として生まれる。
1547
吉良大浜の戦いに初陣。
1548
斉藤道三の娘、濃姫と結婚。
1560
桶狭間の戦いで今川義元を破る。
1570
織田・徳川連合軍が姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍に勝利。
1571
比叡山延暦寺焼き討ち。
1575
長篠・設楽ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍が武田勝頼を破る。
1576
安土城を築城。
1578
第二次木津川海戦にて毛利水軍に勝利
1582
本能寺の変にて自刃。

エピソード

信長が乱世で抜きんでた活躍をした背景には、戦国武将で初めて兵農分離を推進したことであった。当時は一般的には兵農未分離で、平事は農民で戦いの時のみ武装するという形だったが、信長はまず各々の家の二男・三男を親衛隊とし、次第に有事の割合を増やし職業軍人を増やしていった。
これにより、それまで農閑期しかできなかった戦いがいつでもできるようになり、さらに武士を城下に住まわせるようにし、城を移すことを可能にした。

信長が勝ち進んだ要因の一つに、実力第一の人材抜擢法があった。従来家臣の働きの評価は武功が第一で戦場でどれだけ戦功を上げたかによって評価されるのが常識であった。秀吉の様に決して武闘には不向きでも話術に秀で、戦いを有利に進める事の出来る秀吉を「槍の又左」と呼ばれた武功に秀でた前田利家より出世させていた。
さらに信長は北陸に柴田勝家、中国に羽柴秀吉、といった方面軍を置くことにより四国九州平定を視野に入れ、天下統一を目前にしていた。

「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。 一度生を得て滅せぬ者あるべきか」


伝信長所用「永楽銭紋鉄鍔」

人の世の50年は仏教における六欲天の最下位の下天でも一昼夜に過ぎないほど短いので、生あるうちにやるべきことを成し遂げるべき、桶狭間の合戦に出陣の朝に舞い歌った幸若舞「敦盛」の一節。

「是非に及ばず」

信長の最後の言葉としてあまりのも有名である。 周囲のただならぬ物音に目を覚ました信長に、側近の森蘭丸が明智光秀の謀反であるといった時に、発した言葉で、諸説あり、「光秀なら仕方ない」とするなら何か思い当たる節があったのか、光秀なら本望だという意味か真意は不明である。

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